2019 Issue02
Behind the Scenes

Reliable Shadow“美しさ”を守る人

ホテルの廊下を足早に進む二人の男がいる。ひとりは施設部のスタッフ。仮に名前を山岡としておこう。一歩遅れ、手に道具箱を提げて続くのが中村寿樹。この小さな物語の主人公だ。間もなく二人はある客室に入った。「傷がついてしまっているんだ。ここだね」。山岡が木製の飾り棚に残る引っかいたような傷を示した。「次のお客様のチェックインがあるから、できれば1時間以内に作業を終えてほしい。できる?」「やってみます」。顔を近づけて傷の状態をチェックしながら、中村はいつものように言葉少なに答えた。「じゃあ、よろしくお願いします」という言葉を残して山岡は退室する。中村はいつも靴を脱いで仕事に臨む。特にそう指示されているわけではない。もちろん客室は土足で構わない。しかし、仕事に向き合う姿勢としていつもそうしている。それが中村流の、お客様が滞在される部屋に対する礼儀であり、仕事に集中するときのスタイルだ。

中村寿樹は、パレスホテル東京専属のリペア職人である。

客室やラウンジ、宴会場、さらにはエレベーター内まで、傷を丁寧に修復し、メイクアップして元の状態と変わらないように仕上げる。特に目立つ傷は施設部の指示のもとで優先して対処し、それがなければ1日4室のペースで定期的に客室を回って必要なリペアを施す。対象になるのは木部が多いが、ほかにも大理石や革、クロスなどもある。深い傷や欠けがあればまずパテなどで丁寧に埋め、整形してから色を付ける。色を合わせるのは最も難しい作業だ。オリジナルと変わらない色を作るために、量を微妙に調整しながら数種類の顔料を混ぜ合わせる。だから愛用の道具箱の中には、常に30を超える顔料が用意されている。もちろん発色は素材によって異なり、光の当たり方によっても見え方が変わる。さらに人の視線の高さや角度も意識しながら、その場所に最もふさわしい色を再現する。臭いにも配慮が必要だ。ごくわずかでも塗料の臭いが残ってはいけない。さらに時間。次のチェックインまでの限られた時間内に、速やかに完了しなければならない……制約条件は多い。しかし中村はこの仕事が好きだ。「学生時代は建築やデザインの勉強をしていました。当時から古い物が好きで、新たにデザインするよりは、古い物を直す仕事に関心を持っていたんです」

その思いを貫き、卒業後はアンティーク家具の修理などリペアを専門とする会社に入った。10年間職人として経験を積み、その後独立。間もなく9年になる。都合20年近くを、リペアの世界で生きてきたことになる。

約束した1時間までには余裕があったが、棚の修復は終わった。そろそろ時間だからと再び顔を見せた山岡が「あれ? 傷があったのはどこでしたっけ?」と目を丸くする様子を中村は傍らで微笑みながら見ていた。この仕上がりなら大丈夫だ。

中村がお客様に会うことはない。お客様から「ありがとう」と声が掛かることもない。そもそもリペアという仕事は、痕跡が残らないことがベストなのだ。しかしそれでいいと中村は思っている。

「常に自分が納得できる最高の仕事をする。それだけです。たとえお客様の声が聞こえてこなくても、自分に挑戦し、成長していける場があるというのは幸せなことだと思います」

本当にこれが己の全力を注いだ仕事といえるか―リペア職人中村を、プロフェッショナルとしての誇りが支える。

Text: Arata Sakai
Photos: Yoshihiro Kawaguchi

この記事は、2019年8月発行の「THE PALACE」Issue 02掲載の内容をベースに、2022年12月現在の情報として掲載しています。2019年の取材撮影時の写真やテキストを使用しているため情報が更新されていない部分もございます。ご了承ください。

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