2022 Issue05
Behind the Scenes

Treasured Time追憶の味、特別な時間

ある日の午前、ホテルのスタッフはラウンジのテーブル席を整え、お客様を迎えるための準備をはじめる。お迎えするお客様は、長年ホテルへ足を運ぶニックさんだ。予定の時間より少し早くラウンジの入り口に現れたニックさんをスタッフはいつもの席へとご案内する。窓辺の景色を目にするとニックさんは昔のことを鮮明に思い出すという。「建て替え前のラウンジもバーもよく利用させてもらっていましたが、皇居外苑を望む10階にあったバーからの眺めがとても素晴らしくて、初めて足を踏み入れたときのことを今でも憶えています」

――ニックさんが最初にホテルを訪れたのは30年も前のこと。バーでランチメニューのステーキ サンドウィッチをオーダーした。午後は仕事の予定がなかったこともあって、一緒にボルドーの赤ワインを選んだ。その際に応じたのがバーテンダーの三浦だった。日本の文化を好むニックさんにとって、三浦のサービスにおもてなしの和の心に通じるものを感じた。オーダーするときに膝を着いて受け応えする三浦の振る舞いが特に印象的で、ニックさんが生まれ育ったアメリカやヨーロッパにはない習慣だった。

「こちらが何かお願いをしなくても、きめ細やかな気遣いで、様々なことに対応をしてくださいました。三浦さんをはじめ、ホテルのスタッフのおもてなしで心地よく穏やかな時間を過ごすことができました」。それ以来20年間、ニックさんは毎週木曜の12時に眺めのいい窓際の角のテーブル席でステーキ サンドウィッチと赤ワインを楽しみながら、思うままに時間を過ごすようになった。月日が経つにつれて、ニックさんにとって木曜の昼の時間は大切なひとときとなっていた。「当時は仕事が忙しく、ストレスをため込んでいたり、身体が疲れ切っているときもありましたから、発散する場所が必要でした。精神的なバランスを保つうえでもとても助かりました」

それから歳月が流れた2012年。パレスホテル東京は、新たな時代に合わせたホテルとしてリニューアルオープンした。レストランやバー、ラウンジのメニューもそれぞれ一新。ステーキ サンドウィッチも具材の取り合わせや、ソースにもアレンジが加えられた。新しいサンドウィッチを口にしたニックさん。慣れ親しんだ味とまったく変わってしまったことに大きなショックを感じた。ニックさんは、ホテルの新しい門出を祝福しながらも、生活環境や仕事の変化も重なり、次第にホテルへ足を運ぶ機会が遠のいてしまった。

それから約9年の時が過ぎた。ある夜、偶然にもニックさんのお嬢様とホテルの総支配人が、同じ会食のテーブルで隣に座ることがあった。食事中、お嬢様はあえて父親のことを話題にあげることはなかったが、会食後の別れ際、総支配人とふたりになったときに、「実は…」と、ニックさんがホテルから足が遠のいてしまった理由を教えてくれた。「ホテルのバーでサンドウィッチと一緒にボルドーの赤ワインを楽しむ時間を父はとても大切にしていました。あの味が懐かしく、とても恋しいと」

ひとつのメニュー。その味を大切にしてくださっていた大事なお客様がいたこと。そのことに気がつけず、今日に至ってしまったこと。ホテルとして何かできないか。この話をきっかけに、ホテルでは昔のレシピを復活させる動きが起きた。

当時のバーラウンジのシェフは、現在、副総料理長としてキッチンに立っていた。彼であれば、一度、途絶えてしまったレシピを再現できるのではないか。総支配人と三浦、そして副総料理長は、記憶を辿りながら味の再現を試みた。ある程度のカタチは見えつつも、最後の決め手に迷いがあった。やはり、このメニューを完成させるには、ニックさんにも、試食に参加していただくのがいちばんではないか。そんな想いから、ニックさんに連絡をとった。

この声がけに、驚きながらも快諾してくれたニックさん。試食には、ニックさんも加わり、味つけの細部まで、試行錯誤を重ねて、ようやく昔ながらの味を再現した。完成したメニュー名は、“Nick's 国産牛フィレステーキ サンドウィッチ”。この味を愛してくれたニックさんに敬意を込めて名前を入れさせていただいた。上質な牛フィレ肉とトーストしたブレッド、そしてサイドディッシュのフレンチフライ。シンプルな組み合わせが、素材そのものの味を存分に楽しめる趣向となっている。ニックさんも旧友に再会するかのような気持ちで懐かしいサンドウィッチの味を喜んだ。

「アメリカやヨーロッパのホテルやレストランでは、常連のお客様がいても個人の名前をメニューに付けるような発想はあまりありません。ホテルからの要望に本当に驚きましたが、その気持ちがとても嬉しかったです。ただこのメニューは、あくまでホテルの皆さんが受け継いできた味です。そこには心のこもったアイデアがあって、細かい気遣いまで伝わってきます。お客様へのおもてなしを大切にする日本の文化も含めて、このサンドウィッチのおいしさなのだと思います」

――ある日の真昼、ホテルを訪れたニックさんは、窓辺のラウンジ席で、たゆたう水面に木漏れ日が揺れるお濠を眺めている。30年前と変わらない、穏やかな緑の景色だ。サービスのスタッフが近寄り、声をかけると、ニックさんは視線をスタッフに移し、微笑みながらこう伝えた。「ハイ、いつものをお願いします」と。

Text: Ayako Watanabe
Photos: Sadato Ishizuka

この記事は、2022年2月発行の「THE PALACE」Issue 05掲載の内容をベースに、2023年6月現在の情報として掲載しています。2022年の取材撮影時の写真やテキストを使用しているため情報が更新されていない部分もございます。ご了承ください。

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