緑の森と水のモチーフが織りなす景色が広がり、都心ながら日本の原風景に触れられる特別な場所、東京・丸の内。江戸城の佇まいを今に残す濠と世界に誇るビジネス街が隣接し、非日常と日常が親密に関わり合って、経済や文化の中心として未来へ発展し続けている。歴史の面影と風格が漂う和田倉濠の石垣、手前には1羽の白鳥が水面に波紋を描きながら浮かんでいる。パレスホテル東京を象徴するシグニチャースポット、メインロビーからの眺めだ。晴れの日を迎える人、海外から日本を訪れた旅行者など多くの人が行き交い、心を交わし、記憶をつなぐ場。その穏やかな時間と静寂に包まれた寛ぎの空間を見守る1本の樹がある。柔らかな曲線を描く枝ぶりが印象的なその樹は“手向山紅葉” と呼ばれる枝垂れ紅葉(モミジ)で、濠の石垣を借景に幽玄な景色を奏でる。春の新葉は初々しく染まる紅色、夏は緑色、晩秋には再び紅葉して華麗さを放ち、深い切れ込みの入った細長く伸びた葉は、糸を編み込んだ繊細なレースのような趣で一日の光や四季の移ろいを鮮やかに映し出す。たおやかで凜としたその姿にいにしえから日本人が宿す奥深い感性や美意識、独自の自然観を重ねるだろう。
2012年5月、新しい時代にふさわしいホテルへと生まれ変わったパレスホテル東京。都会のオアシスともいうべき空間を設計したのは世界的建築家、テリー・マクギニティー氏。東京の中心にありながら、緑豊かな自然や日本の伝統文化を感じさせるロケーションにインスピレーションを受け、故郷のオーストラリアや活動の拠点、英国で培われた感性に“日本” のエッセンスを加えた独創性の高いコンセプトが至るところにちりばめられている。「皇居の東御苑に着想を得てイメージしたフォルムや色彩を反映しています。ホテルのどの空間においても同じ想いを持ってデザインを考えましたが、なかでもエントランスからつながるメインロビーは家の玄関ホール。多くのお客様が集う、まさにホテルの“ハート” です。ここでお客様を歓迎すると同時に全てのお客様が各々の目的地へと出立する場。家のように明るく落ち着きを持つ、爽やかなハブとして捉えました」
新たな歴史を歩み始めるホテルのために、テリー氏が手掛けたスケッチがある。伸びやかで落ち着いたメインロビーには1本のシンボルツリーが描かれている。ランドスケープの設計を担当した三菱地所設計の植田直樹氏が当時を振り返る。「テリー氏のスケッチを拝見したとき、シンボルツリーの重要性を改めて感じました。メインロビーがホテルの心臓であり、特別な意味合いを持つこと。その空間の印象を左右するメインの樹木に何を選べばよいのか頭を悩ませました」
樹木の選定には設計チームとホテルのスタッフなど多くのプロジェクトメンバーが顔を揃え、ディスカッションを重ねた。ロビー正面は、窓ガラスによりフレーミングされた風景が1枚の絵のように楽しめる場所となる。一年を通して外を眺めたときにいつも同じ景色となってしまわないよう常緑樹ではなく落葉樹、しかも日本の情緒を伝えられる樹木が適している。濠沿いに植えられている枝垂れ桜との調和や連続の美を求めて桜も候補に挙がったが、開花の時季以外は葉が大きく、樹形も大ぶりの桜はロビーの背景を彩る要素としてベストバランスではなかった。都心の高層ビルが立ち並ぶ立地のため、風向きや日照時間も重要な条件。多角的な検証と議論を重ねていくなか、運命的な出合いのタイミングが訪れる。
それは植田氏がメインとなる樹木を探しに栃木県の植木園へ足を運んだ日のこと。南と西側に遮るものがなく燦々と陽射しが降り注ぐ畑に樹形の素晴らしい手向山紅葉が佇んでいた。「末広がりを描く伸びやかな枝ぶりで生命力溢れる姿が印象的でした。葉の形も繊細で彩りも変化し、四季を通じて日本的な印象を醸し出せると確信しました。環境が変わると育たなくなるケースもありますが、この樹であれば、陽当たりの強いお濠端の位置に絶好の樹木だと思いました」
手向山紅葉の魅力を一層引き出す工夫も計画された。ひとつは、樹木を配する位置だ。当初は、シンボルツリーはロビーからの眺望のセンターに置く想定だったが、実際は、あえて中心から外した左側に樹木を置いた。そうすることで、日本の美意識ならではのアシンメトリーの美しさが際立ち、景色にも「余白」の趣を生み出すことができた。さらにもうひとつ、樹木の手前に庵治石を添えることで磨いた石面に四季折々の自然美が投影される「床紅葉」を見立てた。都心に居ながら日本の雅な風習を味わえる創意を込めた。
2024年現在、手向山紅葉が佇み、お客様をお出迎えしてから10年余りの時が過ぎた。その端正な姿は今も当時と変わらない。細やかな手入れは、ホテル全体の植栽の世話を担う植木職人が定期的に手掛けている。枝の伸びが早い夏は飛び出してしまう枝や隙間が出過ぎてしまわないよう、冬場は葉が落ちて枝だけになった状態でも堂々と映える姿に整えられ、枝ぶりの流れに沿うようやさしく剪定を行うことで常に魅せる形が保たれている。若木のような印象だが、樹齢はおよそ80年を過ぎているという。繊細な樹木ということもあって、その美しさを維持することは容易なことではなかったとパレスホテル東京の元施設部長、内田 章は語る。
「この紅葉を迎えてから、毎朝必ず一番に様子を見に行きます。枝ぶりやフォルムの最適な状態を記憶し、長年、見守り続けてきました。少しでも変化があるとすぐに気がつきます。番人のお役目を仰せつかった身としては、特に台風や大雪の日など気が気ではありません。パレスホテル東京のシンボルとしてはもちろん、スタッフたちからも愛されている大切な存在ですから」
平安時代の歌人として名高い菅原道真が詠んだ歌がある。「このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」――紅葉の名所として知られる奈良、手向山を錦絵のように絢爛豪華に織りなす紅葉。旅人の安全を祈念して、美しく色づいたその枝を神に手向けたという歌で、百人一首の風景としても親しまれている。今朝も光を浴びた手向山紅葉の葉がロビーに移ろいゆく季節を映し出す。そして、これからも変わらぬ姿で旅人たちを見守り、日常を離れた寛ぎのひとときを叶えてくれるだろう。
Text: Ayako Watanabe
Photos: Sadato Ishizuka
この記事は、2024年2月発行の「THE PALACE」Issue 07掲載の内容をベースに、2025年2月現在の情報として掲載しています。2024年の取材撮影時の写真やテキストを使用しているため情報が更新されていない部分もございます。ご了承ください。
More